手にしたシルバーはただただ楽しかった。
高校を卒業後、引っ越し業者に務めていた頃を振り返って話す。
「俺はね、幸せだったんだよねぇ。仕事に行けば、その日の仕事があり、夢中で働けばいい。時間になったら終わり。仕事は終わって、そのまま遊びに行ったっていい。何も考えずに遊ぶ。また次の日、仕事に行けばいい。その繰り返しで、お金も貰えるじゃない。で、また遊べばいい。だからね、幸せだったのよ」
働いて、遊んで、特に不満もない暮らしだった。
とある日、仕事の休憩室で同僚が持っていた男性ファッション誌を借りて読んだ。
ふと目に留まったのは造形して焼くと銀になる粘土だった。
興味が沸いて、その日に東急ハンズに足を運んだ。
「作り始めたら、もぅ、面白くなっちゃって、はまっちゃって。たまたま、工具売り場の売り子のおっちゃんが元職人だったから色々な事知ってるの。作っててわからない事、全部そのおっちゃんが教えてくれたんだよね」
元職人との出会いが追い風になり、ますます彫金作りにのめり込んでいったという。
仕事が終わったら、店へ行き閉店まで色々な話を聞く、そんな日々を2年も過ごした。
「もうね、おっちゃんにも、お前もういい加減にしろよって言われて。まあ、これが愛ある話なんだけどさ。おっちゃんは俺に言うんだよ。
『お前な、もう安い道具なんか揃ってそろそろ10万とかする高い道具欲しくなってきてるだろう。だけど、買って試してなんて繰り返していたらお金が続かない。だからな、お前は彫金の学校に行け』って言うんだよ。俺、そんな事考えた事がなくて、え!学校なんかあんの!?って」
彫金の学校へ行けば使ってみたいと思っていた高価な道具も使い放題になる。学費を考えてもどう考えてもその方が良い、とアドバイスを受けた。
ちょうどその時期、遊び仲間たちが「夢を叶えたい」と言い出した頃だった。
みんなが夢を叶えたいという中、自問自答した。
「じゃあ俺は何をしたいのかなって。で、考えていたら昔から漠然と職人さんに憧れていたのがあったんだよね。ジュエリー作りにも面白さを感じていたから、じゃあこの世界でしがみついてでもやっていこうかなって思った」
「夢を叶えたい」といって実現させたバーテンダーの友人に、相談しに行った。
これまで作った物を、材料費程度でもお金をだして買ってくれていた人間の一人でもあった。
「俺さ、まじでこの世界でやってみたい、って言うと「いいじゃん」って一言。それで、背中を押されて・・・今に至るわけですよ。」
「熊のリング」これは最初のオリジナルデザインであると話す。
自分だけのオリジナルデザインを意識したのは友人の一言がきっかけだった。
「彫金学校の友人たちと、デザインフェスタってイベントに出店した事があるのよ。
そこに高校時代の友人が来たんだけど作品見て、『つまんねぇな』って一言。それで初めて気が付いたんだ。俺、何つくりたいんだろうって」
これまでは、作る事が楽しかった。どこかで見たことのあるデザインを真似て作るだけだったが自分はどんなものが作りたいんだろうと悩み、半年ほど作品を作ることが出来なくなった。試行錯誤している中で、ある日突然できたのが熊のリングだった。
「俺さ、小学校の頃の趣味は各地の工芸品集めだったんだよね。両親が北海道出身で帰省したりしてたの。それで、北海道の工芸品は熊の木彫りじゃない。だけど小学生の小遣いでは買えないからさ、良く見て帰るの。しっかりと目に焼き付けて。アイヌがどう、っていうのはその頃はまだなくて子供の頃見た熊だったな」
作品と人生を変えたアイヌとの出会い
高校を卒業してからは毎年、オートバイで北海道へ遊びに来ていた。
高速道路のパーキングエリアで偶然知り合いになった男性から、熊のリングをしているのを見て「二風谷に行くと良いよ。」と勧められ二風谷へと向かった。
平取町二風谷アイヌ文化博物館へ行き、そこで初めて本物のアイヌの着物を見る。
「博物館でさ古い、昔の、生のアイヌの着物を見て、なんじゃこりゃあ、やべぇ!って衝撃を受けちゃったんだよね。アイヌ民族に惹かれていくきっかけだね。」
それから二風谷のバス停の前にあるアイヌ工芸品を扱う貝澤民芸店へ向かった。
「そこはライダーハウスをやっていて。俺、今日はここで世話になりたいなと思って泊まったんだよね。そしたら、タダだったの。だから、店の掃除をしたんだ。そうしたら、あんちゃん、ちょっと来いって言われて飯ごちそうになっちゃって。だから、また店の手伝いして犬の散歩したら、毎度、飯ごちそうになっちゃって気が付いたら一ヵ月もいたんだ」
お店の周囲には貝澤徹氏始め、アイヌ民族の工芸作家達がいて木彫りを近くで見たり、掃除を手伝ったり、アイヌ民族伝統のアトゥシ織の反物を作る手伝いもした。
アトゥシはオヒョウの木の樹皮を使って作られる。
束ねた皮を五右衛門風呂のような釜で茹でて、割いて、結んで、それを縒り糸にする。
「ここから織るから向こうにフックがあるからひっかけて来てと言われて12m先まで走って行ったりしてね。当時は俺、なんでこんな手伝いしてんだろ、また博物館行きてぇのにな、って思っていたんだけど今考えるとすごく貴重な体験させてもらった」
同年、別のバイク仲間から阿寒湖に凄い熊彫りがいると聞き、初めて阿寒湖へ向かった。
阿寒湖アイヌコタンへ行った先は「熊の家」地下にある展示室で衝撃を受ける。
藤戸竹喜氏の熊を見た時に、あまりの凄さに言葉を失う。それと同時に思ったことがある。
「俺はね、あんなすげぇの見てなんでだか『この作品を倒す』って思っちゃったんだよねぇ。それからはリメイクして、よし出来たと自信を持って阿寒湖へ行っては竹喜さんの熊見てまた打ち砕かれてさ。その繰り返しだったな」 その頃は東京の中野のアパートで暮らしていた。駅前の掲示板で偶然、アイヌ料理の店が中野に移転してくると知る。「アイヌ料理」の響きに惹かれ店へ行くと入り口近くで木彫りをしている男性がいた。
「阿寒湖で凄い熊彫りの作品を見て俺もあんなの作りたいんだ、と話をしたら『阿寒湖だべ?それ、兄貴だわ』って言われて。その木彫りしてた人、藤戸幸次さんだったのよ。
偶然なんだけど、運命だよね。」
それからは楽しくてすっかり常連になった。その頃から、幸次さんを始め、周囲の人間から「会わせたい子がいる」と言われ始めた。
「俺の行く先々でいつも言われていて。正直しつこいなって思ってたんだけどさ。その日もそう言う先輩と店で話してたら、たまたま入ってきたのが絵美だったんだよね。笑っちゃうでしょ?」
それが、今阿寒湖で一緒に暮らしている妻、絵美との出会いだった。
絵美は阿寒湖アイヌコタン出身で、アイヌ民族である。まるでドラマを見ているかのような運命的な出会いの連続。
「俺はね、良い人と巡りあう才能があるんだよねぇ。まぁ、そんなわけで99年っていうのが色々な出会いがあって俺のターニングポイントだったと思う」
東日本大震災以降、生活環境の変化もあり北海道移住を考え始めた。
そんな折、妻の絵美と話した。引っ越してから美味しいコーヒーはどこで飲めるんだろう。二人ともただ旨いコーヒーがない生活なんて嫌だ!ってそれで、自家製コーヒーをやることにしたんだ。ほら、喫茶店もできるんじゃない、なんて言い訳もしながらさ(笑)
アトリエの移転の準備などを終えて、阿寒湖へ移住するとまた人の好意があって現在のアトリエの建物を譲り受けることになった。アトリエには「アゲさんのコーヒーが飲みたい」と来客も多い。夏にはアトリエの裏でバーベキューパーティをし、ギターを弾いて歌い楽しい夜を過ごす。冬はマイナス30度を記録する極寒を逆手にとって遊ぶ。
「同業の先輩たちからなんか、『お前、羨ましいなぁ。ずるいなぁ∼』って言われるよ。ファッション業界ってさ、気をはってなきゃなんないんもあるでしょ。他の人と違う空気だしたりさ。それが、お前はいいなーって。普通に生活してるのに、面白い事になるからね。
まぁ、でも俺は何も考えてないね。わらしべ長者みたいなもんさ。ただ良い人達に出会ってきたってことだけなんだ。」
アイヌでは熊はキムンカムイと呼ぶ山の神である。熊のリングにもカムイが宿り、アイヌと引き合わせるように次々と巡り合っていったのかもしれない。