コタンの形成
アイヌの集落をコタンといいます。コタンは食べ物や飲み水が得やすく、地震や洪水などの災害に遭わないような川や海沿い、あるいは湖岸などの場所に作られました。多くは数軒から十数軒くらいの規模でした。人びとは、村おさを中心に、コタンの周りにある山や川、湖、海などの決まった場所で狩りや漁、植物採取をしながら生活していました。 現在の阿寒湖アイヌコタンは、暮らしやすい経済事情などにより色々な地方から人びとが集まって形成されたものです。
コタンの住宅「チセ」
コタンに建てられたアイヌの家を、アイヌ語で「チセ」といいます。家を作る材料は、すべて自然のものを利用しました。たとえば、骨組みの木はハシドイやヤチダモ、壁や屋根の材料にはヨシやササなどの草や、キハダやシラカバなどの木の皮などが使われていました。チセを建てるときは、材料を採ってきて家を建てるまで、コタンのすべてのアイヌたちが協力しあいました。チセは、屋根の傾きが4方向にあり、多くは入り口のところに玄関や物置として使われた小さな土間がありました。チセの大きさは20㎡から50㎡程度のものが多かったようです。
「チセ」の内部
チセのなかは四角形の一間で、真ん中よりやや入り口寄りに炉があり、窓は母屋入口から向って正面に1カ所と左右どちらかに1、2カ所あり、この中でも正面の窓は神様が出入りする窓として、大切にされました。左奥は宝物置場で漆塗りの容器や刀が飾られ、その上には神様が祀られていました。
チセでは、家族が座る場所、お客の席、寝る場所が決まっていました。
時代の流れのなかで次第にチセは姿を消していきましたが、現在は、阿寒湖アイヌコタンにアイヌ生活記念館として復元されています。
「チセ」の周囲
チセの周囲には食料庫、便所、物干などの生活に必要な建物や、イオマンテなどの儀礼を行う祭壇、クマを飼育する檻などが建てられていました。こうしたチセと周りの建物は、同じ地方であれば、どこも同じような配置をしていました。
暮らしを支えた漁や狩り、植物採取
アイヌの暮らしは豊かな自然によって支えられていました。山では、ヒグマやエゾシカ、タヌキなどさまざまな獣が獲られたほか、ウサギやクロテンなどの小動物猟も行われました。海や川では、夏のマス漁、秋のサケやシシャモ漁など、さまざまな魚類や貝類などの漁が行なわれました。アザラシやイルカなどの海獣猟も盛んでした。
エゾシカ、ヒグマ、アザラシなどの獣類、またサケなどの大型魚類は、重要な食料であったばかりでなく、その皮は、衣服、靴、物入れなどの材料として大切に利用され、無駄にするところはありませんでした。
また、千島地方では、エトピリカなどの鳥を捕って食すとともに、それらの羽で衣服(鳥羽衣)を作りました。
狩りや漁に劣らず重要だったのが、山野でのさまざまな植物採取でした。季節ごとの山菜や木の実などが豊富に摂取されましたが、とりわけギョウジャニンニクやオオウバユリなどは欠かせない食材でした。オオウバユリの球根(鱗茎)から採れる良質のデンプンは、大量に加工・保存されるとともに下痢止めの薬として広く利用されました。
また、オヒョウニレやシナノキ、イラクサなどの植物繊維から、衣服や生活道具が作られました。ガマの葉は、住居に敷かれるゴザの材料となりました。
薬草についての豊かな知識も伝承されており、多種多様な植物が用途別に採取され、保存されていました。
狩りや漁などは主に男性の仕事、山菜採りや服を作るのは主に女性の仕事でした。
このような狩りや漁によって得られた収穫物は、アイヌ自身の食料や生活用具の材料となるとともに、中国大陸や本州との交易品としても活用されました。アイヌは、古くから近隣の諸民族と活発な交易活動をおこなっていたのです。
食生活
食料の多くを「自然の恵み」に求めていたアイヌは、自分たちを取り巻く自然の状況を熟知していました。山菜などの野生植物を一度に取り尽くすようなことは決してせず、必ず根を残して次の年の分を確保しました。四季折々に取れる野生植物や動物、魚介類は、日々の食卓にのぼるとともに、長く厳しい冬の間の食料として保存されました。また、飢饉などに備えるために蓄えられました。
主食は、具だくさんの汁物でした。山菜をベースに、動物の肉や魚を入れて煮た汁物をオハウといいます。オハウは、用いる材料によって、カムイオハウ(熊の肉入り汁)、チェプオハウ(サケ入り汁)、キトピロオハウ(ギョウジャニンニク入り汁)などと呼ばれました。
副食には、アワやヒエなどの穀物を煮たサヨ(粥)、山菜を汁気がなくなるまで煮込んだラタシケプなどがあります。肉や魚は串に刺して焼いて食べたほか、刺身やたたきのようにして生で食べることもありました。
儀礼の際の食事
ヒグマやシマフクロウの「霊送り」や先祖供養、婚礼や葬礼などの際には、普段の食事に加えて、米粉で作った団子に昆布のタレがかかったコンブシトや、カボチャ・トウモロコシ・ニコロマメ・イナキビ・シケレベ(キハダの実)が混ぜ合わされたラタシケプなど、特別な料理が作られました。人間だけでなく、祖先や神々も共に食べ、共に楽しむものと考えられていました。
今に伝わるアイヌの食文化
江戸時代の終わり頃になると、アイヌも野菜を栽培するようになり、多くの料理に用いられました。明治以降は、本州からの移住者の増加とともにコタンの食生活も大きく変化しました。その一例として、味噌や醤油などの調味料の使用があります。
一方で、北海道各地の郷土料理にはアイヌの食文化の影響が見てとれます。たとえば、サケを凍らせた「ルイベ」は、ル・イペ(とける・食べ物)という意味をもつアイヌの伝統料理です。また、有名な三平汁や石狩鍋は、チェプオハウがその起源とされています。アイヌの食文化は現代の北海道の生活に脈々と受け継がれているといえます。