私が理事長を務めている㈶前田一歩園財団とは、明治39年に国から払い下げられた前田家の広大な私有地「阿寒前田一歩園」の豊かな大自然を後世に残そうと、前田光子が中心となって昭和58年(1983年)4月に設立された組織です。その主な仕事は、阿寒湖周辺にある約3900ヘクタールの森林の美しい景観を永遠に守っていくこと、自然保護に関する学術調査研究、普及啓発、人材育成などの事業を行うことです。
かねてから阿寒湖畔の森と湖、そして火山が織りなす素晴らしい景観を後世に残したいと強く願っていた光子は、全財産を寄付して財団にすることを決意したのです。しかし、財団の設立とほぼ同時に光子が亡くなってしまい、私の妻が光子の姪であったことから、そのまま私が何も分からないまま、2代目の理事長を継ぐことになりました。
私が知っている前田光子という人は、実直で正義感の強い、曲がったことの大嫌いな女性で、前田家に嫁ぐ前には、宝塚歌劇団で「タカラジェンヌ」として活躍したほど美しい女性でした。そんな光子は、無償で阿寒のアイヌコタンの人達に土地を貸すとともに、さらに貧しい暮らしを強いられている様を憂い、観光客の少ない冬でも生活に困らないように、協同で木彫りの工芸品を作ることのできる作業所を建ててあげたり、何かにつけて面倒を見る事を少しもいとわない、本当に心の優しい人でした。いつしか世話になったアイヌの人たちは彼女を「ハポ(お母さん)」と呼んだほどです。
また彼らは光子に感謝の意を表すために毎年暮れに忘年会を開いてくれ、この会をとても楽しみにしていた光子も、他では絶対に歌うことのない宝塚時代の「すみれの花咲く頃」を歌ったり、ピアノを弾いて聞かせることもあったといいます。しかし、単に優しいだけでなく、時には本人のためにと厳しくたしなめることも辞さない、本当の母親のような厳しさと優しさを合わせ持った人だからこそ、亡くなって30年近く経った現在でも、彼女を慕う人たちがその人柄を語り継ぐほど愛されたのだと思います。
「七人衆」と呼ばれるアイヌコタンの世話役たちは、今も光子をしのんで毎年欠かさず忘年会を開いてくれており、現在では私が光子に代わって出席しています。この行事は、たとえ「七人衆」の顔ぶれや財団理事長が交代しても、続いて行くことでしょう。